僧侶が考える、なぜ今あえて葬儀が必要なのか
- 葬儀にお金をかけるくらいなら、残された家族のために使いたい
- 忙しい中で何日も拘束されるのは、正直タイパ(時間対効果)が悪すぎる
お寺の住職をしていると、こうした声を耳にする機会が増えました。
現代の感覚で言えば、葬儀は「コスパ」も「タイパ」も最悪なイベントです。
安くても数十万、高ければ数百万のお金が一瞬で消え、準備や当日の儀式で心身ともに疲弊します。
「形式的な儀式にお金をかけるのは無駄だ」
その意見は、経済合理性の観点から見れば、まったくもって正しいと言えます。
しかし、僧侶として問いかけたいことがあります。
「無駄」をすべて排除した人生は、果たして豊かなのでしょうか?
今日は、あえて「効率化」の逆を行く提案をしたいと思います。

葬儀という「非効率な儀式」が、実は現代人の心を守るための『余白』であるというお話です。
- 人生における「無駄」の再定義
- デザイン理論「余白」から見るお葬儀
- 現役住職が目撃した「心の変化」
人生を豊かにするのは、いつだって「浪費」だ
少し極端な話をします。
もし、私たちの人生から「生存に不要なもの(無駄)」をすべて取り除いたら、何が残るでしょうか。
- 旅行 ▶ 移動して疲れるだけの行為。VRで済ませれば効率的です。
- 美食 ▶ 栄養摂取だけならサプリメントや完全食で十分です。
- 推し活 ▶ アイドルや趣味にお金を使っても、生活が便利になるわけではありません。
これらはすべて、生きていくためだけなら不要な「浪費」です。
しかし、私たちはその「無駄」のために汗水流して働き、その「無駄」な時間の中にこそ、「生きていてよかった」という実感や喜びを見出しています。
効率を突き詰めれば、人生はただの「死なないための維持作業」になってしまいます。

人生の豊かさは、効率の外側にある「余白」や「浪費」の中にしか宿りません。
葬儀も、これと同じ種類の「必要な浪費」ではないか。私はそう考えています。
故人のためにお金を使うのは無駄でしょうか?
これは旅行や趣味と同じように、あなたの心を豊かにし、区切りをつけるための「精神的な贅沢(ラグジュアリー)」です。
デザインの「余白」理論で、死を考える
ここで、少し唐突ですが「デザイン」の話をさせてください。
見やすく美しいデザインには、4つの基本原則(近接・整列・反復・対比)があると言われています。
しかし、プロのデザイナーがこれら以上に大切にしている要素があります。
それが「余白(ホワイトスペース)」です。
情報をぎちぎちに詰め込んだデザインは、窮屈で読む気が起きませんし、何が大切なのか伝わりません。
あえて何もない「空白」を作ることで、初めて重要なメッセージが際立ち、見る人の心にスッと入ってきます。

実は、「身近な人の死」という出来事も、遺された家族にとってはこれ以上ないほどの「情報過多」な状態です。
- 悲しみ
- 後悔
- 将来への不安
- 遺産や手続きの煩雑さ
脳内は処理しきれない感情とタスクで、文字がびっしり詰まったスライドのようにパンク寸前になっています。
もしここに、「葬儀」という余白がなかったらどうなるでしょうか?
亡くなった翌日からすぐに仕事に戻り、何事もなかったかのように日常を過ごす。
これは、余白ゼロの窮屈なデザインと同じです。

心の処理が追いつかず、いつかどこかでメンタルの不調を起こしてしまうのではないでしょうか。
住職が知っている「顔つき」のビフォーアフター
この「余白の効果」を、私は現場で嫌というほど目の当たりにしてきました。
私はいつも、亡くなってすぐの「枕経(まくらぎょう)」からご家族とお会いします。
その時のご家族は、ほとんどの方が張り詰めた糸のように緊張されています。
大切な方を亡くした悲しみ、後悔、これからどうなるのかという不安。
そして何より、「私がしっかりしなければ」という責任感で、表情が強張っているのです。
しかし、そこから通夜・葬儀という時間を過ごし、多くの人に支えられ、儀式を終えた後。ご家族の表情を見ると、驚くような変化が起きています。
多くの方が、非常にスッキリとした表情をされているのです。
「何もしない待ち時間」や「非効率な儀式」を通過することで、パンク寸前だった心の整理がついた何よりの証拠だと思います。

あの数日間という「余白」がなければ、あの穏やかな表情には辿り着けなかったのではないでしょうか。
「何もしない待ち時間」は、機能的なバッファである
通夜や葬儀には、現代人が嫌う「待ち時間」がたくさんあります。
- 線香の番をしながらぼんやりと過ごす夜
- 火葬場での長い待機時間
- お坊さんの読経を聞いている時間
生産性なんてこれっぽっちもない、この「何もしない時間」こそが、実はデザインされた心のバッファ(緩衝材)として機能します。
悲しみの受容プロセス|なぜ「儀式」が心の回復に必要なのか
大切な人を失った直後、私たちの心は現実を受け入れられず、深い混乱状態に陥ります。
通夜や葬儀・告別式という一連の流れは、単なる宗教的な手続きではありません。
それは、遺された私たちが時間をかけて死という現実に向き合い、心を癒やしていくための、精巧なグリーフケアのシステムなのです。
物理的な時間をかけることで「死」をゆっくりと受け入れる
人が亡くなった直後、家族は悲しむ間もなく事務的な手続きに追われます。
もしここで葬儀を行わず、すぐに火葬をしてしまったらどうなるでしょうか。
心が現実に追いつかないまま、遺骨だけが手元に残るという事態になりかねません。
通夜を行い、翌日に葬儀を行うという「時間」をあえてかけることには大きな意味があります。

通夜の夜は、故人と過ごせる最後の「余白」の時間です。
ろうそくの火を見つめ、線香をあげ続ける行為の中で、私たちは少しずつ「あの人はもう亡くなった」という残酷な事実を、五感を通じて認識し始めます。
この緩やかな時間の経過こそが、急激なショックから心を守るクッションの役割を果たします。
現代人は忙しく、時間を短縮したがりますが、心の回復にはどうしても物理的な時間が必要です。
あえて手間と時間をかけることで、私たちは無意識のうちに自分自身の心を守っています。
お金の問題ではなく「心の納得感」を最優先にする
「お金がないから直葬にする」という選択も、もちろん間違いではありません。
しかし、それが単なる節約目的であれば、後になって「もっと何かしてあげればよかった」という後悔してしまう可能性があります。
大切なのは、金額の多寡ではなく、自分たちが「十分に送り出した」と思えるかどうかの「納得感」です。

予算内で、最大の「心の満足」を得る工夫が大切です。
- 祭壇を豪華にする代わりに、家族でゆっくり食事をする時間を取る
- 故人が好きだった音楽を流す
- 棺の中に故人との思い出の品を入れる
形式にとらわれず、自分たちが納得できる「無駄な時間」をデザインしてほしいと思います。
その能動的な関わりこそが、お金では買えない心の充足感をもたらしてくれます。
まとめ|あえて「無駄な時間」をと向き合う勇気を
もちろん、経済的な事情で直葬(火葬式)を選ぶことを否定はしません。
しかし、もし「面倒だから」「無駄だから」という理由で儀式を省略しようとしているのなら、一度立ち止まってみてください。
あえて立ち止まるその時間は、故人のためと同時に、遺された家族も再び前を向いて歩き出すための準備運動期間です。
旅行に行ってリフレッシュするように、葬儀という「非日常の余白」に身を委ねてみる。
そこで思い切り泣き、疲れ果て、別れを告げる。
その「最高の無駄」こそが、あなたが明日からまた前を向いて生きていくために、どうしても必要なエネルギーになるはずです。
効率化社会で戦う現代の方にこそ、この優しい「余白」を大切にしてほしいと願っています。
