「誰にも迷惑をかけずに死にたい」は不可能?僧侶が教える、葬儀で堂々と「迷惑をかけ合う」大切さ
「子供たちに金銭的な負担をかけたくない」
「高齢で友人もいないし、誰にも知らせずひっそりと逝きたい」
近年、家族葬や直葬を選ぶ理由のアンケートをとると、必ず上位に来るのが「家族や周囲に迷惑をかけたくない」という回答です。
その慎ましさと、残される人への深い愛情には、同じ人間として心から敬意を表します。日本人の美徳とも言える優しさでしょう。
しかし、お寺の住職として、あえて少し厳しいことを、そしてとても大切なことをお伝えさせてください。
「誰にも迷惑をかけずに死ぬこと」は、仏教の教えから見れば不可能です。
そして、その「迷惑をかけまい」とする優しさが、かえって遺された家族を「孤独」というリスクに晒してしまうこともあるのです。
今回は、少し視点を変えて、「葬儀とは、最後に盛大に迷惑をかけ合い、遺された家族のための『応援団』を結成する儀式である」というお話をしたいと思います。
- 「迷惑をかけたくない」が招く、遺族の意外な「孤独リスク」
- インドの教えに学ぶ、堂々と「お互い様」で逝くためのヒント
- 葬儀でしか引き継げない、お金より大切な「縁という資産」
仏教の「縁起」の教えと、インドの教育
仏教には「縁起(えんぎ)」という根本的な教えがあります。
これは、「すべての存在は、他との関わり(縁)によって成り立っている」という意味です。
私たちは一人で生まれ、一人で大きくなったわけではありません。
生きていること自体が、すでに他者の労力や時間に「依存」し、ある意味で「迷惑」をかけながら成立しています。
「迷惑をかけてもいい」という許し合い
ここで、仏教発祥の地であるインドの教育の話をさせてください。
私たち日本人は子どもの頃、「人に迷惑をかけてはいけません」と教わります。
しかし、インドではこう教えるそうです。
「お前は人に迷惑をかけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」
これは、「完璧に自立することなど不可能だ」という前提に立った、非常に現実的で温かい教えです。
「迷惑をかけない」と頑なになることは、裏を返せば「他人の迷惑も許さない」という不寛容な社会を作ってしまいます。
そうではなく、堂々と迷惑をかけ、その分、誰かの迷惑も笑って許してあげる。

葬儀とは、その「許し合い」の場ではないでしょうか。
「迷惑をかけない」は「孤独になる」と隣り合わせ
「誰にも迷惑をかけたくない」という言葉は、裏を返せば「誰の手も借りない」「関わりを断つ」という宣言にもなりかねません。
その優しさを貫いた結果、逆に遺族が困ってしまうケースを、私は現場で見てきました。
一周忌になって相談に来られたご遺族の話
実際、私の元には葬儀から一周忌を迎える頃になって、相談に来られる方がいらっしゃいます。
「主人の遺言通り、家族葬にしたけれど……本当にこれで良かったのでしょうか」
誰にもお別れを言わせず、お骨になってから「実は亡くなっていました」とハガキ一枚で知らせる。その結果、何が起きたか。
葬儀が終わった後から、友人がバラバラとご自宅にお焼香に来てしまい、かえって遺族が何ヶ月も対応に追われ、心の休まる暇がなかったのです。
「金銭的な迷惑」を避けた結果、「精神的な負担」という別の迷惑が遺族に残ってしまった。
これは、故人も望んでいなかった結末のはずです。
社会的な繋がりの継承|喪主挨拶に見る「縁」の相続
では、どうすればよかったのでしょうか。
ここで重要になるのが、葬儀の「セーフティネット」としての機能です。
葬儀の際、喪主様は必ずこう言います。
「生前は故人が大変お世話になりました。今後とも、故人と同様のお付き合いをお願い申し上げます」。
これは単なる定型文ではないように感じます。
「故人が築いたご縁を、これからは私が引き継ぎます。だから私たちが困った時は、故人のよしみで助けてください」という、未来の契約更新なのです。
もし葬儀を行わなければ、周囲の人々は「あの人の子ども」を認識できず、この「御縁」は繋がっていきません。

葬儀という面倒な儀式は、「これからは、この遺族が地域の一員です」と社会に認知させるためのシステムでもあるのです。
祖父の葬儀で実感した「御縁という資産」
葬儀を通じて「迷惑(手間)」をかけたからこそ、遺族が救われる。
私自身にも、それを痛感した忘れられない経験があります。
私が高校2年生の時に祖父が亡くなった時のことです。
当時の私は「優しいおじいちゃん」としての祖父しか知りませんでした。
しかしお葬式には、私が想像もしなかったほど沢山の参列者の方が来てくださいました。
当時は誰が誰だか把握しきれませんでした。
しかし10年以上たった今でも、当時参列してくださった方にお会いすると、「君のおじいさんには本当にお世話になってね」と、生前の話をしていただくことがあります。
お葬式自体は一時的なものです。
しかし、そこから生まれた「御縁」は10年以上経っても私を支えてくれています。
私たちは、子どもに苦労かけさせたくないからと、お金などの資産を残すことを意識します。
しかし、「御縁」もまた、親が子に残せるかけがえのない資産ではないでしょうか。

私は僧侶になった今でも、それを強く実感しています。
高齢化による「縁の希薄化」とどう向き合うか
「呼ぶ人がいないから直葬でいい」という声もよく聞きます。
確かに、長寿化によって故人も喪主も定年退職し、現役世代との繋がりが薄れているケースは多いでしょう。
しかし、参列者の「数」は問題ではありません。
たとえ数人の親戚や、数人の近所の方だけであっても、葬儀を行う意義はあります。
重要なのは、「いざという時に頼れる人が、具体的に誰なのか」を可視化することです。
「おばあちゃんがいなくなって寂しくなるけど、みんなで支え合おうね」 そうやって顔を見合わせ、言葉を交わす場を作ること。
それこそが、故人が最も望んでいる「安心」の形ではないでしょうか。
まとめ|最期くらい、盛大に甘えて、迷惑をかけ合おう
「迷惑をかけたくない」という願いは、一種の思いやりのカタチだと思います。
でも、仏教の視点から見れば、私たちは迷惑をかけ合い、支え合わなければ生きていけない存在です。
だからこそ、最期くらいは遠慮せず、「盛大に迷惑をかけて、みんなにお世話になって逝く」。
そんな開き直りがあっても良いのではないでしょうか。
葬儀にかかる手間や時間は、あなたがこれまで生きてきた中で育んだ「御縁」を、遺された家族にプレゼントするためのラッピングのようなものです。
「ごめんね」と縮こまるのではなく、「ありがとう、後は頼んだよ」と胸を張って、周囲の人々に甘えてほしいと思います。
その「迷惑」こそが、遺された家族を温かく守る、最強のセーフティネットになるはずです。
